女性医師とホームレス


 女医なるものに対して、世間の風当たりは強い。

 男の医師、女の医師どっちだって記事の内容に関係ないような時にも、もし女医であれば「女医」と敢えて書かれるのが女医だ。
「HPで患者を中傷した医師を処分」でいいじゃないか。
「自宅で大麻栽培していた医師を逮捕」でいいじゃないか。

 こうしたことでいちいちジェンダーを意識させられては、僕は男なので実感はないがもし女性ならあまり面白くないと思う。

 「女医」はドラである。

 医師というだけでが一翻役が上がる、ましてそれが「女医」であれば二翻役が上がるのだ。しょうもないゴミ記事でも「女医」、ドラ、ドラで、役満だ。

 なぜ世間は「女医」に対して一種特別な思い入れと感情を抱いているのか。少なくとも、現実に医療機関を職場としている私にとっては、女医を珍奇なものとするイメージは医療現場と世間でまだまだ温度差があるように思える。大学の医学部にいるかぎり、「女医」なるものは珍しくも何ともない。今や医学生の四割は女性なのだから。


ホームレスに対する女性医師の視点



 こんなことをあえて書くのはHotumaのURLメモさんの所の書き込みをみて、少し思うところがあったからだ。

 

——こういう人に湯水のように医療費を注ぎ込むたび、(生活保護ですから、医療費は100%国が出します)複雑な気持ちになっていました。この人達は、社会的に終わっています。  id:ueyamakzk:20041222#p1 (04/12/22)

——撤去させられたから、寒空に御座をひいて寝ましただと?。お情け頂戴ですか。アナタがそうしたいからそうしているだけでしょうが。自分の意思でそうしているだけでしょうが。

 http://blog.livedoor.jp/nakomayu/archives/13077337.html (05/01/24)

——ただし、ホームレスにもいろいろいて、アル中や精神異常者、生活保護に甘んじてる怠け者、こそ泥の癖がある人などしょうもないのもやっぱり多いから、一概に十把ひとからげにはできない。

 http://decoppati.exblog.jp/442010 (05/01/26)

 年齢、出身階層、教育水準、職業(医師)の点で、ほぼ共通するプロフィールをもつ女性3名による生活保護受給者やホームレスへのコメント。生活保護を受けている男性や、ホームレスの男性への女医さんの視線は、こんなにも冷たい。わらい。

 Hotsuma氏の冷笑も非常によくわかる。

 だが、いったいなぜこういう発言がなされるのだろう。

 彼女らの意見は、、女性医師という立場の人々の意見を代表しうるものなのだろうか?それとも特殊な人々が特殊なコメントをしているだけなのだろうか?


弱者としての女性医師



 女性医師は「冷たい」のであろうか。

 女性医師は弱者の痛みがわからない、酷薄な人たちなのだろうか?僕はそうは思わない。女性医師に弱者の痛みがわからないはずがないと僕は思う。

 なぜなら、医者の世界では彼女らはむしろ弱者の立場であるからだ。
 

 女性医師が受ける「差別」というのはどのようなものか。

 日常診療を行う分には、こうした差別を実感することは今では少ない。そうした傾向は年々薄れているのではないかというのが臨床現場で働いている私の実感だ。男尊女卑的な価値観で育った年輩の患者さんの中には、女医というだけでまともに話を聴こうとしないような方はたまにおられるけれども、総じて日常業務のレベルでこうした差別に触れる機会は減っている。とはいえ、たとえば医局でのお茶くみ、片づけなどを「して当然」と暗に期待されていたり、などという話には事欠かないので、細かな障壁は今でも存在しているのだろう。

 しかし、女性医師にとってもっとも差別が顕著になるのは人事の面ではないかと思う。大学の教授・助教授、基幹病院における診療科長の人事に関していえば、男性の比率が圧倒的に高い。あちらこちらに女性は点在しているものの、全体としては一割いるかどうか。こうした数字で評価する限り女性差別は明らかに存在すると言って間違いないと思う。

 人事というのは、つまるところ仕事に対する評価だ。キャリアアップを望む女性医師にとっては、程度の差はあれ、あらゆるステップで逆風に直面することになる。
 

 もちろん、女性が差別されていると言うためには、女性と男性の生得的な能力差を考慮に入れなければなるまい。たとえば女性の方が明らかに能力的に劣っていると仮定すれば、男女が公平に競争しても、男性が圧倒的に優位を占めるような結果とになりうる可能性はある。

 だが、こと医者の世界に関して言えば、男性の方が女性よりも能力が上であるなどとはとても言えない。むしろ逆であるかもしれない。

 医学生の間は女子学生の方がむしろ成績は優秀な傾向がある※。試験対策のテンプレートとなるような、一糸乱れぬ完璧なノートというのは大抵女子学生の手によってつくられる。今私がのうのうと医者のような顔をしていられるのも、こうした優秀なノートのご相伴にあずかったせいである。神戸大学94年入学のTさん、あの時は本当にありがとうございました。自分の周りに関する限りは、男子学生が女子学生よりも劣っている可能性はともかく、その逆は少なくともちょっと考えにくいように思う。
 

 学生の時点では総じて女性の方が男性よりも成績がよい傾向があるのに対し、大学のスタッフや管理職などでは圧倒的に男性の方が比率が高いという現象は、なぜ生じるのだろうか。

 ラディカルなフェミニストなら「本来女性は男性より優れた能力を持っているにも関わらず、社会的に差別されているがゆえに、上位の職域に進出することを阻まれている」と主張するかもしれない。根本的な話になってしまうが、こういう話をすると、そもそも男性女性の性差によって能力に差があるか?という永遠の命題にぶちあたってしまう。

 しかしこの問いに答えることは難しい。

 こと知的能力に関して言うと、僕は男女間には差がないという立場を表明しています。すくなくとも日常生活では男女間の知的能力差を考えることはあまり有益ではない。日常で本当に必要なのは、個々の知的能力差を把握(値付け)することだ。本当にあるのかないのかわからない男女間の能力差なんかより、個々人の知的能力のばらつきの方がいつだって大きい。

 実際のところ、脳の構造には男女間に差があったりして、それが知的能力の差を生み出すかもしれないという可能性は否定できない。知力の絶対量とか、そういうものではなく、質的な差というのは存在するのかもしれない(例 地図の読めない女、話を聞かない男)。
 しかしそういった生物学的な能力差がたとえあったにしろ、性差による社会状況の違い、つまり社会学的な差の方が常にそれを凌駕しているのではないかと思う。生物学的な知的能力差というものは、こうした無数の交絡因子を外した上で初めて検討可能だが、現実的にそれは不可能。

 従って生物学的能力差が、たとえ存在したとしてもそれが証明されることは将来的にもないと思われる。そういう風に露わにした男女差が、果たして男性が優位なのか女性が優位なのかもそもそもわからないのだ。


過剰適応



 女性と男性の間で知的能力に差はないとしても、社会的には明らかに男性と女性では差異が生じている。

 それならInputとしての生得的な能力が同等でも、その後のプロセスが異なればoutputとして男女差は生まれ得るだろう。極端な話を言えば、明治時代の女性は学問をすることを必ずしも奨励されていなかったので、結果として知識人の大多数は男性で占められていた。しかし明治時代だって女性が男性よりも知的に劣っていたわけではないのである。

 明治時代とは雲泥の違いはあれど、現在の日本においても、男性と女性の置かれている立場はやはり同等ではない。

 結論から言ってしまうと、女性は出産・育児などで職場離脱という代案が常に提示されているということが、職業を続ける女性の態度を決定していると思われる。つまり、必ずしも職業を完遂することを求められないのである。そのため男性に比べ職場から慰留を求められることは少なく、逆に職業を完遂しようとする努力は個々人の努力に委ねられている。

 簡単に言うと、男は甘ったれていても代替案がないからなんだかんだいっても職場に居続けるしかないが、女性は「結婚でもしたら?」みたいな形の代案が存在するがゆえに、逆に職業に就き続けるためには甘えが許されないということだ。そして、出産・育児に要するコストを職場は負担したがらないため、職場に居続けることを選択するなら出産・育児、もしくはその他の生活を犠牲にする覚悟がいる。

 女性は、そういう意味で、職場の形成する同調圧力に対し、男性の同僚よりも過剰に適応を迫られているのである。

 独身で仕事バリバリの女性には共通した雰囲気が見られる。それは同年代の男性に比べてきりっとした毅然とした態度をもっていることと、しかし個人としてはどことなく孤独感が滲み出ていることであり、それは女医においても同様である。(こうした現象は外科系など、女性の比率が少ないところでより顕著である)。もちろん、これはある種カリカチュアライズされた古い女性像である。どの職域でもこうした傾向は緩和される方向であるが、地方ではまだまだ根強いし、医者のような労働流動性の少ない職業では他の職種よりもそういった傾向はやや遅れている。

 一生仕事をし続ける覚悟をした女性が、現代ではもっともハードボイルドなのかもしれない。


過剰適応の結果として



 さて、話を戻すが、前記したホームレスに対する女性医師のコメントが、なぜ発せられたのか、というのはこの「過剰適応」をキーにすれば理解しやすいのではないか。

 

 女性医師が医師を続け、男性の同僚と同じようなキャリアアップを積み重ねるのはなかなか大変である。なぜなら、キャリアを積み重ねる際に受ける、あからさまではないにしろ様々な不条理に直面せざるを得ないからだ。

 職業的な面において、同じ能力をもつ男性と同じ評価を受けるためには、女性はそれより余分にいろいろな形でプラスαの努力を強いられる。同じ100m走でも、彼女らだけは向かい風1.8m/sの中で勝負を強いられているようなものだ。しかもキャリアが上がり立場が上がってゆくにつれて、この向かい風は風力を増す傾向にある。医者の世界は、社会の中では比較的学歴的に上位にあるので、女性医師が直面している逆風は一般の世界よりはいささか強すぎる。

 特筆すべきは、多くの女性医師の方々は、そうした環境のなかで腐ることなく頑張っていることである。そうした不利をものともせず彼女らは努力する。しかしそのためには自分に厳しくなければならない。そこに居続けるだけで彼女らは余分な努力を強いられているのだから。

 閉じた環境で逸脱せぬように努力し続けることを強いられている彼女らは、彼女ら自身のアイデンティティーの保持のために、そうした努力を肯定するような価値観を構築せざるをえないのではないか。彼女らが、たとえばホームレスのような社会逸脱者に対して向ける冷淡さは、その裏返しにほかあるまい。

 彼女らにとっては努力を放棄することを許す価値観は容認できない。過剰に適応することを強いられている人間にとっては、不適応というものは許されるべきものではない。もし、こうしたホームレスのような社会逸脱者を肯定するならば、逆に今現在彼女らが直面している男性中心の医者世界に適応しようとしている努力は無意味なものととらえざるを得なくなってしまう。

 だから、ホームレスに同情的にはなれないのではないか。
 

 女性医師の心理構造は、黒人差別の顕著であったころのアメリカにおける富裕黒人(=名誉白人!)のそれと似通っているのかもしれない。

(Feb 2005初稿

 Aug改稿)