ゴジシ

—紹介状について



紹介について書いたわけだが、今日はその最後の話。

 病院と診療所、または病院同士であれ、患者さんが別の医療機関に罹る時にはそれまで行っていた医療の概要がわかった方が望ましい。こうした場合に医者は別の機関の医者宛に手紙を書くわけだが、これを診療情報提供書という。諸々のやりとりはすべてこうした紹介状を通して行われる。

 ところで、この医師同士の紹介状では、わりと決まった書式がある。これはこうした診療情報提供書を書くと医業報酬が発生するからで、こうした紹介状は公文書に準じた扱いを受けているのである。

例えば、
 
診療情報提供書

平成16年6月22日

Half boiled 病院 内科 半熟先生御侍史
東京大学 内科
主治医 森林太郎
 拝啓 時下先生にはますますご清栄のこととお慶び申し上げます……
まぁ、こんな感じで、紋切り型なのである。すべてはここから始まるわけだが、ところで、ここの宛名にある「御侍史」という言葉、皆さんご存じだろうか?僕は日常会話でこのような言葉を使ったことがない。多分「ゴジシ」と読むのだろう……けど。

 どうやら、辞書をひもとくと、侍史という言葉は、相当高貴な方に対しての手紙に書く敬称らしい。偉い人には書記官がついている。直接手紙を差し上げるのは畏れ多いのでその書記官に申し上げます、という意味だそうだ。えらい大仰な敬語ではある。

 しかしこの言葉には本来丁寧語の「御」は付けるべきではない。つまりあまねく(※)医師の間で普及している御侍史という言葉は、最上級の丁寧を表そうとしているにもかかわらず(少なくとも書き手はそう思っている)文法的には完全に間違っているのだ。

 こうした現象はある種滑稽であるが、グロテスクな戯画であるといってもよい。人生は賢者にとって喜劇で愚者にとっては悲劇、という言葉は、こんなところでも正しかった。

 いや、そんなことも言っていられない。昨今の医療不信(というか医者不信)の風潮では、こうした医者同士の言葉遣いでさえ、医者の尊大さ、患者蔑視を表しているのだそうな。患者を不快にさせる医者の言葉遣い、いわゆる「ドクター・ハラスメント」にも繋がりかねないので医者の皆さんは再考を要した方がいいらしいよ。
 

 実際、僕などはプライベートで手紙など書いたこともないし、古式ゆかしい手紙文の書き方も知らない。敬語はなんとか普通に使えるけれども「御侍史」なんて口語では絶対に使わない。そもそも発音のしにくさだけでも、この言葉がまがいものであることがわかる。つまりは我々の中に内在化された言葉ではなく、ほとんどの医師はこの言葉の持つ虚飾性と無意味性を十分に自覚しながら使っているはずだ。

 にもかかわらず、我々は、そう、高等教育を受け、合理的かつ科学的思考を行うことを当然としているはずの我々は、相も変わらずこの語を使う。それは、おそらく、この語を使い回す旧文化全体に対する敬意ではないかと私は思っているのだけど。

 テーブルマナーにうるさいイギリス人の「究極のテーブルマナー」というものを知っているだろうか。

 これは、植民地時代に、植民地時代の首長などと会席する際のもので、つまりは相手と同じ振る舞いをするというシンプルなルールだ。つまり相手がスープ皿に口を付けてずるずるとすすれば、それをそのままマネするわけである。

 このマナーの要諦は「相手に恥をかかせない」という一点に尽きる。こちらの原理原則はともかく、相手を尊重し、相手側のルールで立ち居振る舞うということ。これがいわゆる敬意となり、マナーとまで昇華されるのだと思う。一神教であるイギリスにてこうした知恵が出たのはさすが七つの海を支配した大英帝国の老獪さよ、と感嘆せずにはいられないが、そもそもの原理原則に乏しい我が国では、こうした尊重の仕方は随所にみられるのである。

 少なくとも「御侍史」という言葉は、僕にとってはイギリス人のテーブルマナーである。死語だし、おまけに文法的には間違ってさえいるのだ。だが、それが医師同士での「正しい」やりとりであれば、私は自分のマキシムを曲げることに、些かの痛痒も感じない。僕たちは村上春樹の小説の登場人物ではないのだ。

 

 日和見主義的なそうした我々の対応は、批判の対象になって然るべきだと思う。だが、我々のそうした対応は、そもそも日常たずさわっている医療においてもこうした態度を迫られることに起因しているのだと思う。我々は、自己の信条を曲げることに、慣れきっている。医者の仕事は、極めて受動的なものである。

 例えば大病院と小さな病院では、医師に指す後光が著しく異なる。大病院とは、そこで働く医師に対し時に魔術的にさえ働く強大な力を付与してくれる大がかりな治療装置だ。同じ人間が中小病院に行けば、こうした後光は消え、消えて始めて僕たちはその後光に気づくのだ。こうした後光は患者さんにとってはアンフェアなものにとられがちだが、そうした後光を適度に使いこなし、うまく仕事を捌くことすら、過重な医師の仕事に含められているのだ。
 昨今の医療不信は、そうした後光を弱め、医師の仕事は全国的に悲惨なものになりつつあるわけだが。

 そうした後光がないところには、後光に耐えられない患者さんが集まってくる。「偏差値40からの大学受験」と同じく、A1c12%からの糖尿病治療、酒飲みの非代償性肝硬変、煙草がやめられないCOPD。

 びっくりするほど体もぼろぼろになった患者さんが、コンビニ感覚で訪れ、僕らは採血結果をみて仰天する。重症?大げさだな先生。まあそういわんで注射でも一本打って治してくれよ。

 そもそも大病院に来る患者は、こちらのルールで治療を受ける気があるのだ。大きな病院の医者は、「本人に治す気がなければしょうがない」という事で患者の自由意志にまかせたりするが、そういう患者は大きな病院の視界から消えた後、こういうところに変わり果てた姿で表れる。そういう言い分は僕だって思うのだけれど、そうもいってられない。僕はお節介なんだろうか。

 明らかに医学的には入院すべき状況であったとしても、本人が入院する気がなければ、さあ、ネゴシエーションの始まりだ。家族という搦め手を使い、情に訴えてでも、なんとか医学的に悲惨な末路を辿る事だけは阻止しなければ。あれ?なぜか僕が「入院して治療をさせて下さい」って頼み込む方になってる!

 たとえば健診でみつかった糖尿病。A1cは8%。

 治療が必要ですね。まずは飲み薬から始めましょうね、内服を開始して二週間後に再診しましょう。副作用とかないかどうか、念のため。

 ……ふむふむ。そういう前回の診察内容ね。それで今日は来たと。
 あれ? 前回の日付、二年前だ!

 薬は……そりゃのみきっちゃったよねー。A1cは……15%だ。

 え?入院してちゃんと治したい?奥さんにいよいよ説得された?余所の病院紹介してくれ?

 ええ?紹介状?……ええと、この二年間僕が診療していたということで引き継ぎの診療を向こうの先生にお願いしますという形になるわけか……。これじゃあ俺はまるっきりダメ医者じゃないか……

 ……しょうがないなー。

 だが、こういう診療は、まず現状を追認するところから始めないといけない。患者さんのためならアホ医者にも藪医者のふりだってしましょう。風邪で注射打ってくれ?打ちましょう、それであなたの気が済むのなら。

 僕にだって、僕の考える理想の医療をしたいという希望はある。医療としてあるべき姿もある。だが、僕は消防士で、現に目の前で家が燃えている。防火の対策をしていなかったからといって、火を消さなくていいわけではない。自己責任?そんな都合のいい言葉を言ってみたい。理想や「あるべき論」はともかく、まず対応。医療現場というのは消防士や警察官と同じく、本質的に後手後手に回るものだ。

 僕はどちらかっていうとアメリカ式のミニマルな治療や投薬が好きだし、自分の中でそういう引き出しは持っているけれど、そうでない診療を拒否したりはしない。


 理想はともかく、まず対応。繰り返し経験したこういった出来事にくらべたら、手紙の際のルールなど、もうホントに些細なことだ。
 御侍史?たかが手紙に馬鹿丁寧に書くくらい、いくらでも。
 世の中にはもっとわけわからなくて、理不尽な事がいっぱいある。
 それで僕の知らないあなたの気が済むのなら。
 

 「御侍史」であろうが「侍史」であろうが、どっちでも過剰ではあるんだけれど、侍史に「御」がついたのは一体いつのことだったのだろうか。そして誰が付けたのか。膠着語である日本語は、敬語が重厚化しやすいのだろうとは思うのだけれど。

 そして、なぜ僕たちは「侍史」という言葉もそうだが、明らかに間違っている「御侍史」という言葉すら、なぜやめられないのか。

 わからない。少なくとも現時点では僕には回答は見つからないが、糸井重里氏が作った「オトナ語」辞典が一つのヒントになるのかもしれない。これは主にサラリーマンが使う言葉をあげているのだが、職種は違えどこの「部長殿」などは「御侍史」と構造的に全く同じであるような気がする。
【部長殿】
役職に「殿」をつけるのは、マナーとして正しくないのだ!ということらしいので、役職に「殿」をつける時には、「怒られるかもしれない!」と覚悟しながらつけるべし。なぜそのような曖昧な言い回しを用いているかというと「本来はこういう日本語なのにケシカラン!」というスタンスで書き進めてしまうと、この本が成り立たなくなってしまうからである。なので、役職に「殿」をつけようが「とんでもないことでございます」を「とんでもございません」といおうが、「ら抜き表現」を駆使しようが、レジ係が「千円からお預かりいたします」といおうが、ウエイトレスが「こちらコーヒーのほうになります」と言おうが、当方としてはすべからく全然オーケー確信犯なんだけども、「これって怒られる言葉なんだよな」ということもきちんと知っておくのがオトナであるとおもうぞ。さて、何カ所日本語が間違っていたでしょう?
(糸井重里「オトナ語の謎」より)
 

 この言葉だけではなく、おもしろいことにこうした現象は様々なところで目にすることができる。

 たとえば、僕らの外来診療の中でも「ゴジシ」的な処方はある。たとえば、胃潰瘍の患者さんに薬をだしたとする。この時、真に必要なのはH2-RAなりPPIなりの単剤でよいはずなのだが、たとえばセルベックスとか、ガストロームとか、アルサルミンとか、必ず「オカズ」として処方してはいないだろうか。また、出血の患者にどうせ効かないだろうなと思いながら点滴の中に「アドナ+トランサミン」とかだしたりしていないだろうか。これって、やってもやらなくてもどっちでもいいはずなのに、なぜか今までのやり方を踏襲してしまう。そういう意味では極めて「ゴジシ」的な行動である。

 本当は、「ゴジシ」だって、同業同士の過剰な馴れ合いなわけで他業種の人間に薄気味悪さを感じさせたり、処方の追加だって結果的には患者負担を増やしている。余分な副作用のリスクも負うし、端的にいうと「害」なのである。だが、こういうことを「無駄」と捉えず、(いい意味での)「手間」と評価するのは、おそらく日本に固有のメンタリティゆえではないか、と私などは思っているのだ。

(Jul,2004 初稿 Jan,2006改稿)